開業当日の上本町駅(1914年)

ピンチをチャンスに変えてきた
近鉄グループ110年の歴史

2020年9月、110周年を迎えた近鉄グループ。創業から今日に至るまでの道のりは決して平坦なものではなく、幾多の苦難に遭遇しながらも、それを克服し成長してきました。私たちが、進取の精神と挑戦の気概を持ってピンチをチャンスに変えてきた歴史をご紹介します。

1910年代〜

運を賭けた
生駒トンネル掘削の決断

近鉄は1910年9月16 日、大阪の上本町と奈良を結ぶ奈良軌道として創立しました。同年10月、大阪電気軌道、通称「大軌」へと改称を行います。
大阪と奈良を鉄道で結ぶには生駒山が大きな課題で、迂回やケーブルカーへの乗り換えなどさまざまな案を検討しました。その中から将来の高速大量輸送の必要性を見通し、最も困難とされた最短距離での長大トンネル掘削を百年の大計として決断したのです。
全長3.2㎞という長大トンネルの掘削は、工事総額500万円、工期2年半という大工事で、大軌の当時の資本金300万円に鑑み、無謀な計画と評されました。大軌の経営陣は「トンネル掘削工事は、将来の競争の余地を残さず、永遠の利益をもたらします」と株主を説得し、工事に着手しました。
1911年に開始した掘削工事は、当初は順調でしたが、1913年1月26日に岩盤が崩落。150人もの作業員が生き埋めになり、19人もの尊い犠牲者を出しました。さまざまな苦難の末、生駒トンネルは完成し、1914年4月30日、上本町-奈良間の開業にこぎ着けました。当時の社運を賭けた決断が今日の奈良線の基礎を築いたのです。

工事中の生駒トンネル東坑口(1911年頃)

新生駒トンネル開通による
石切・生駒間線路変更図

1940年代〜1960年代

たなサービスを次々と実施し
事業を拡大

戦後復興期には、買収や合併により路線を拡大する中で、特急ネットワークの構築にも注力しました。1947年に日本の民鉄で初となる座席定員制(1949年からは座席指定制)の有料特急を上本町-名古屋間で、翌年には上本町-宇治山田間で運行開始。当時、鉄道は大変混雑しており、近鉄は「赤ちゃんを連れたご婦人でも、安心して快適に座って行ける旅」を提供することで、今後の鉄道輸送サービスの在り方を示しました。1958年には、世界初の2階建て特急電車を導入したほか、列車公衆電話やシートラジオの設置、おしぼりサービスなど、日本で初となるサービスを次々と実施しました。
一方、世界に目を向け、新たなサービスにも積極的に挑戦しました。1950年に開始した近代的タクシー事業においても、車体はアメリカのイエロータクシーにならった黄色に統一し、空車・乗車が一目で分かる標識灯を設置。また近鉄百貨店阿倍野店1階には日本で初となる「ドラッグストア」を開業します。生活必需品を年中無休の12時間営業で販売するという、当時は他に例のない先進的な取り組みでした。

  • 列車公衆電話(1958年頃)
  • 近鉄タクシー「イエロータクシー」(1950年)

い転じて福となす
名古屋線軌間拡幅工事

大阪-名古屋間で運転を開始した特急は、線路幅の違いにより伊勢中川での乗り換えが必要でした。所要時間の短縮や輸送力増強のために軌間拡幅工事を始めたものの、着工の直後の1959年9月26日に、超大型の「伊勢湾台風」が上陸。名古屋線は全線が水につかり、車両破損84両、被害総額25億円、自宅が水につかるなど被災した社員は700人に上るという甚大な被害を受けました。
そこで、復旧に全力を尽くすとともに、この機を捉えて軌間拡幅工事を前倒しし、一気に大阪-名古屋間の直通運転を完遂。同時に2階建て看板特急電車「ビスタカー」を進化させた「新ビスタカー」を投入し、都市間輸送の幹線へと成長しました。

伊勢湾台風で被害を受けた名古屋線(1959年)

2代目ビスタカー

転の発想で沿線各地に誘致

東京オリンピックに合わせて1964年に開業した東海道新幹線は、名阪間の特急輸送を軸としてきた近鉄にとって新たな脅威となります。しかしながら新幹線に対抗するのではなく、「東京1千万人の人口を、当社沿線から2時間の射程距離に置く」という逆転の発想で、新幹線を介して首都圏のお客さまを呼び込む戦略へと舵を切りました。さらに新幹線との乗換駅である京都、名古屋から近鉄沿線の観光地に向かう特急網の整備を推進することで、近鉄の特急はさらなる成長を遂げたのです。

  • 拡張完成当時の名古屋駅
  • 京都を出発する宇治山田直通特急の祝賀列車
1970年代〜2000年代

勢志摩を万博の第二会場に

1970年、国内外から大阪万博に来られるお客さまを、当社沿線の2大観光地である伊勢志摩、奈良大和路に誘致するため、難波線の延伸、奈良駅の地下移設、鳥羽線新設・志摩線拡幅の三つの大規模工事を行いました。
上本町から難波まで路線を延伸し、地下鉄御堂筋線と接続することで人の流れが飛躍的に向上。また奈良駅も国際観光都市・奈良の玄関口にふさわしい姿へと一新しました。
伊勢志摩では、宇治山田-鳥羽間に新線を建設し、志摩線の軌間を拡幅することで、大阪・京都・名古屋から賢島までの直通特急の運転を可能にしました。同時に、志摩観光ホテルに新本館(現ザ クラシック)を建設し、日本屈指の大型リゾートホテルにリニューアルしたほか、賢島カンツリークラブや志摩マリンランドなどを開業。賢島周辺は国際的な格調の高いリゾート地となり、万博の「第二会場」として大いににぎわいました。その後も20年に一度の伊勢神宮式年遷宮に合わせて、1994年には志摩スペイン村の開業や伊勢志摩ライナーの運行開始、2008年には志摩観光ホテル ベイスイートをオープンしました。これらの取り組みが志摩観光ホテルをメイン会場とする「G7伊勢志摩サミット2016」の開催へとつながったのです。

  • 難波地下線建設工事の様子(1969年)
  • 志摩観光ホテル ザ クラシック
  • 志摩スペイン村のパレード(開業当時)
  • G7伊勢志摩サミット2016(出典:外務省)

ブル崩壊後、構造改革を断行

1991年にバブルが崩壊し、近鉄グループの経営状況も急速に悪化していきました。
創業以来の「拡大志向」から沿線を中心に経営資源を集中させる方針に転換するとともに、コスト構造改革に取り組みました。鉄道事業は、人口減少社会を迎えたことから、駅の省人化や無人化、電車のワンマン運転化など、人員体制の縮小を前提とした運営にシフト。また地方路線の収支悪化に対応するため、北勢線は三岐鉄道に事業譲渡し、養老線や伊賀線、内部八王子線などは、国の施策を活用した「上下分離方式」や「公有民営方式」による切り離しを逐次実施していきました。
不動産事業では、近鉄不動産が土地に大きな含み損を抱えていたため、2002年に抜本的な再編を決行。近鉄不動産をマンション事業中心の会社として再生、戸建事業と賃貸事業は近鉄の直営事業とし、事業用土地の再評価を行うことで財務基盤の安定化を図りました。
レジャー分野では志摩スペイン村、野球事業に課題がありました。1994年に開業した志摩スペイン村は、バブル期の過剰な投資や大阪に開業したUSJの影響などによって入園者数が減少。運営コストや固定資産の見直しを行い経営の安定化を図りました。
一方、近鉄ブランドを全国に広める広告塔としての役割を持った野球事業は、観客動員数の伸び悩みや選手の年俸高騰などが球団経営を圧迫し、赤字が年々膨らみ続けました。そこで2004年、球団の営業権をオリックス野球クラブに譲渡し、野球事業から撤退。大阪近鉄バファローズとオリックス・ブルーウェーブが統合しました。
その他にも、あやめ池遊園地の閉園、近鉄劇場の閉鎖、OSK日本歌劇団への支援打ち切りなど、構造改革を断行しました。これらの取り組みを経て、1999年度~2002年度の連続赤字を乗り越え、2006年度には過去最高の当期純利益を実現しました。

  • 内部・八王子線
  • あやめ池遊園地閉園(2004年)
2010年代〜2020年代

ループの総力を結集した
あべのハルカス

創業100周年となる2010年以降、近鉄グループは縮小路線から攻勢に転じ、新たな挑戦を行いました。鉄道会社にとってターミナルは、沿線の住宅地や観光地の出入り口的な機能を持つと同時に、お客さまのニーズに合ったサービスを提供する役割を担っています。そこで日本一の高さを誇る超高層複合ビル「あべのハルカス」を建設し、総合的なサービスを提供する拠点を目指しました。
「あべのハルカス」は、駅直上に、百貨店やホテル、展望台、美術館などの多彩な魅力を積み上げた立体都市です。全てを近鉄グループが運営することで、グループ間連携によるシナジー効果を最大限発揮し、多くの人々が集まる、新たな価値・魅力のあるターミナルへと進化を遂げました。

あべのハルカス

ること自体が旅の目的となる観光特急「しまかぜ」

「移動の過程」を観光化する試みとして、2013年の式年遷宮に合わせて導入した観光特急「しまかぜ」は、「乗ること自体が旅の目的、楽しみとなる列車」をコンセプトとしました。アンケート調査などを基に、徹底した利用者目線で開発した近鉄の観光型フラッグシップ車両です。
「しまかぜ」は、鉄道輸送や旅行に対する価値観が多様化する中、お客さま一人一人にご満足いただけるサービスを提供しなければ鉄道の未来はないという危機感から生まれました。この「価値の高いサービスには高い収益が生まれる」という付加価値戦略は、新型名阪特急「ひのとり」にも受け継いでいます。

観光特急「しまかぜ」

粋持株会社制への移行

沿線人口の減少や少子高齢化、ネット環境の普及など、社会の変化が激しくなり、新たな企業やサービスも台頭してきました。多種多様な業種を展開している近鉄グループは、それぞれの事業に適した組織、企業風土の下で経営することが必要と判断し、2015年4月1日に純粋持株会社制に移行。「グループの経営機能の強化」と「各事業会社の自立的経営」という二つの目的を同時に達成し、企業価値の増大を図りました。グループの経営政策の立案や調整機能などを果たす純粋持株会社の下、鉄道会社は安全・安心を第一義とした企業風土を、また不動産、ホテル、レジャー、流通会社ではマーケットを重視し、グループ全体の強化を目指しました。

ロナ禍を克服し、
さらなる成長を遂げるための
変革のチャンス

純粋持株会社制へ移行した近鉄グループは、テクノロジーの進化や人口減少・高齢化、グローバル化など、変わりゆく事業環境下でも持続的な成長を目指し、既存事業の構造改革を進めてきました。それと同時に、事業領域や事業エリアを拡大し、新たな事業を積極的に展開。訪日外国人観光客の急増などの影響もあり、旅行やホテル、百貨店業界などは好調でした。
しかしながら、新型コロナウイルス感染症の拡大により、当社グループは未曽有の危機に直面することになります。コロナ禍がもたらした働き方やライフスタイルの変化は、移動や消費の急速な減少、観光需要の消失など、当社グループの事業の根幹を揺るがす事態となりました。
現在、事業構造をゼロベースで見直し、損益分岐点を徹底的に切り下げ、収益力を回復するとともに、アフターコロナ社会を見据えた新たな事業を創出し、事業ポートフォリオを変革する取り組みを進めています。近畿日本鉄道では、2025年大阪・関西万博、その後の統合型リゾート(IR)に訪れるインバウンド観光客などのニーズを見据え、2022年4月29日に大阪難波駅~近鉄奈良駅~京都駅間において、観光特急「あをによし」をデビューさせることになりました。
変化の大きな時だからこそ、ピンチを変革のチャンスと捉え、近鉄グループの新たな未来に向かって私たちはこれからも挑戦し続けます。

観光特急「あをによし」

その他トピックス